結果を決めるのは人間ではない
こんにちは。
ソクローです。
先日の金曜日、会社の新卒、中途、2年目の同期と一緒に仕事終わりダーツバーというもところにいった。
2人1チームでダーツで対戦したのだが
これがとても面白く熱中してしまった。
最終的に白熱した結果負けてしまって
罰ゲームでプリクラを撮ることに。
アラサーの素人童貞の中途採用の方と一緒にツーショットのプリクラを撮り、会社携帯に貼った。
ダーツをしていて思い出したことがある。
それはソクローが高校時代にハマった部活の弓道である。
同じ的あてを手で投げるか、弓で届けるかの違い。
指や弓から放たれた矢が的の真ん中に吸い込まれる感じをイメージすると本当に真ん中に当たる。
会社の人も、あまりにも初めてなのに真ん中に当てるのにびっくりしていた。
ただダーツはフォームとかあまり知らなかったためビギナーラックの面もあるが弓道は違っている。
本当に放たれた矢が的に吸い込まれるように当たる感覚は今でも忘れないし、とても気持ちいい。
そんなことを思い出しときに
1つの大事な考えが思い出した。
確か、昔学んでいた甲本次郎さんの
[どうでもいい思考]だったはず。
結果はどうでもいい、結果は人間が決めれない、結果は神様が決めるから考えずに自分がやるべきことをやれ!
人事を尽くして天命を待つ。
まさにこの言葉である。
ソクローが弓道を始めたとき
最初は「的に当てればいいんだろ!」
的なことばかりを考えて、的に当たった!当たらないですごい一喜一憂をしていた頃があった。
的に当たってる調子のいい時期は俺は天才だ!と鼻を高くして
的に全く当たらない時期は俺には才能がないと落ち込んでを繰り返しいた。
でもそんな考え方をぶっ壊してくれたのは
ある試合で見ためちゃくちゃキレイな射形と
すべての矢を当てる人物の凄さだった。
その日からその人を「神」と名付けた。
「神のような射形の美しさになる」
「そして神を倒す」
その2点が目標が定まった。
的に当てることではなく、キレイな射形を目指す。
後輩に、ビデオを撮ってもらい何度も見直して研究した。
その時ほど的に当たるかどうかの結果ほどどうでもいいものはなかった。
同じ本を繰り返し読み、同じ人の動画や神の動画を撮ってもらい徹底して真似をする。
一つ一つの動作を丁寧に丁寧に行う。
その一連の流れに
自分は安らぎを感じていた。
まさしく巨人の肩に乗る
そして矢を放つ瞬間でさえも
当たるかなー?といった不安ではなく
矢が吸い込まれて行くイメージを忘れず、
矢を的に届ける感じ。
もし外れたとしても
また1から動作を丁寧に繰り返すのみ。
まさしくその時のソクローはフロー状態に入っていた。
また練習中はいろんなところを意識するが
試合には的に吸い込まれるイメージと弓道の神様が舞い降りている別人のイメージを強く想像するため
意識できるところが無意識にできるようになるまで練習する。
の繰り返し。
そして最後の試合ではオールで命中させて幕を閉じた。
そんなか今の自分はどうだろうか?
結果ばかりに一喜一憂していないか。
営業では数字を達成すること
出会いではクロージングすること
ばかりに目を向けてしまいまい、
なんとか達成するも、また目の前に来る数字に対して四苦八苦していないか?
頑張っても気持ちが安らかにならないなら
むしろ頑張らないほうがいいかなと思ってないか。
ザ・コーチという本に
目的、ゴール、目標、やるべきこと
というツールがある。
例 マラソン選手
目的 マラソンでオリンピックで優勝して子どもたちに走る素晴らしさを伝える。
ゴール オリンピックで優勝する、
目標 地区予選で優勝する
やるべきこと
毎日20キロ走る。 体重5キロ落とす。
僕たちは
目的のために、なりたい理想のために生きているのである。
結果ばかりを気にすることは
オリンピックで優勝することばかりを考えてしまうこと。
そうなれば
チートもしてどんな手を使ってでも優勝しようと思うだろう。
しかしそれは子どもたちに走る素晴らしを伝えるものであるか?
優勝するかどうかは神が決める。
常に優勝する道を計画してやるべきことを捻出する。
そしてあとは
子どもたちに走る素晴らしさ美しさを伝えるため
気持ちのいい、心動かされるような走り方、または自分が心を動かされたランナーの走り方を追求すればよい。
そうなればやるべきことをやっているときは
とても安らぎを感じながら
一歩一歩ゴールに近づいていくと思う。
ダーツバーで一人でふと思い出した
大事な考えだったと思う。
常に理想の人を探して
その人の肩に乗る。
結果ではなく、その過程、原理原則を信じて行うことに安らぎを感じれる&ゴールに近づく。
しっかり初心に戻って頑張りたい。
極上の美女ゲットだぜ
ありがとうございました。
ソクロー